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棗と凪 9

二人の気持ち

 地下道を通って駅に向かう。
 地下道にもぐってすぐのときは異常な暑さが身に纏わりついていたけれど、駅が近くなると
ころに界面があって、そこから先は冷気でスーッと涼しくなる。
「どこ、行こう?」
 棗が春日野さんに問いかけている。
「どこへでも?」
 さすがの春日野さんにも、木彫展より先の計画はないようだ。
「『S園前』で降りて。S園にでも行く?」
 春日野さんが言うと、
「えーっ、時刻は全然夕方だけど暑いよお!」
 と棗が答える。
 それがなんだか日頃聞いたことがないような甘えた声に聞こえたので、急にぼくはイライラ
する。だから、
「じゃあ、ぼくたちとは、ここで分かれない?」
 ぼくが棗と和幸さんに提案する。
 春日野さんと一緒にいる棗の姿を、もうこれ以上見ていたくはなかったのだ。
 すると――
「あーっ、彩音ちゃんと二人っきりになりたいんだぁ!」
 棗が春日野さんにしなだれかかりながら、そう言うものだから、
「はい、そうですよ。ぼくたちのデートの邪魔をしないでくださいね」
 と思わず咽から言葉を吐く。
 言葉の中には棘が刺さっている。
「おお、怖い!」
「いいじゃないか! 棗には春日野さんがいるんだし……」
 言葉の語尾が飲み込まれ、彩音の不安な視線を背中に感じる。
 結局、地下鉄をターミナル駅まで一緒に乗り、そこで棗たちと分かれる。
 ぼくと彩音は大手デパートと一体化された巨大雑貨店に向かう。そのとき、
「ああ、そこに行くならば」
 と彩音がいうので、ぼくたちは文房具売り場に絵の具類を見にまわる。
 その他に絵筆やスケッチブックなんかを眺めつつ、ぼくたち二人は最小限度の言葉しか交わ
さない。
 気まずい雰囲気が二人の中を隔てている。
 それがどんどん大きくなる。
 ぼくたち二人の間に重く圧しかかる。
 些細なことで彩音と口論したことは過去に何度もある。
 それが元でしばらく口を利かなかったことだってある。
 でも今回のような重苦しい雰囲気は、おそらくはじめての経験だ。
 だから二人とも対処法を知らない。
 それで、ぎこちなさがどんどん増す。
 まったく大袈裟なのだけれど息が、胸が苦しくなる。
 その場にヘナヘナと倒れてしまいそうな予感がする。
 そして彩音もおそらく同じ気持ちなのだろうとぼくが思う。
 それぞれがそれぞれに感じる不安の内容はきっと違っているけれど、ぼくと彩音は、まだひ
とつに繋がっている。
 正直言えば、ぼくの心変わりというという障害が、はじめて二人の関係を恋人同士に近づけ
たのだ。
 それまで漠然と演じてきた擬似恋人と言う関係から、ごく普通の悩める恋人たちに摩り替わ
り……。
「あのさ……」
 どうにも雰囲気に堪えきれなくなり、ぼくがそう口にすると、
「あっ……」
 彩音がぼくの手をそっと握る。
 それは小さくて暖かだ。
 けれども力強さが込められている。
 ぼくもその手を握り返す。
 彩音を見やると彼女が首肯く。
 ぼくも彩音に首肯き返す。
 たったそれだけのやり取りで、心の中が軽やかに躍る。
 二人の気持ちが通じ合う。
 幸せ?
「なんか買うものあった?」
 だから何気ない言葉が普通に出る。
「ううん。でも咽、乾いっちゃたな……」
 彩音もごく普通に喋っている。
 それからデパートの本館の方にまわり、中国茶がメインのカフェに入る。
 その間ずっと、ぼくたち二人は手を繋いでいる。
 その店はとりわけ高級というわけではなかったが、中学生にとって安くはない。
 そこでお財布と相談し、単品のお茶を二人で分け合う。
 お茶は阿里山金萱(ありさんきんせい)を注文する。
 時間の関係なのか、店には、ぼくたちを除くと女性の客たちしかいない。
 ぼくは何人かのお姉さんたちから強い視線を感じる。
「モテるのね?」
「きみも感じるわけ?」
「視線でしょ? けっこうビシバシくるわよ。……でも、大丈夫」
「なにが、さ?」
「今、矢沢くんはわたしのものだから……」
「……?」
「明日になったらわからないけど、たぶん今、矢沢くんはわたしのものだから……」
「そうなの?」
「うん。今までわたし損してたな。自分の気持ちに気づかなくて……。でも今はわかる。矢沢
くんの気持ちも、自分の気持ちも……。手に取るようにはっきりと……。だから残念なんだけ
ど、でもそんなこと、実はどうでもいいと思えて、自分の気持ちの方が大事、自分が好きだっ
ていう気持ちの方が大事なんだってことがわかって、そういうふうに思えて、吹っ切れた!」
「そんなに簡単なの?」
「ちっとも簡単じゃないよ。吹っ切れたような気がしてるのは、今このときだけだもの……。
気がつかなければ最初からごまかす必要さえなかったのにね。いっぺん気づいちゃったら、も
う隠せないわ。でも……」
「でも?」
「矢沢くんの方がかわいそう」
 そう言った後で彩音は首を横に振り、
「ううん。そういっては失礼だよね」
 と、ぼくの瞳を直視して、
「……矢沢くんの方が大変ね」
 そう言い直すと、はじめて見る大きな笑顔をぼくに向ける。

red18
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